映画感想文「トレイン・スポッティング」

フォロワーにおすすめされたので見た映画の感想文です。1996年製作。

 

 

大学時代、文芸学部(人生を燻らせている元・文学少年少女であり現オタク達の巣窟)で、映画を見て評論らしきものをやろうという講義があった。

その講義の殆どは忘れたが、教授がその中で「殆どの名作映画は冒頭1分で主題を伝えてくる」と言ったことは印象深く、覚えている。「そんなわけないやろ」と思ったからだ。

 

その論の正誤は結局知らないが、「トレイン・スポッティング」はそうだった。それも痛烈かつ高らかに、ノリノリのBGMと疾走感と共に主題を叩きつけてくる。

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「人生に何を選ぶ? 出世、家族、ファッキン大型テレビ、暇つぶしの趣味、住宅ローン、ローンで買うスーツと車、くだらないクイズ番組、腐っていく身体で過ごす老後…etc それが豊かな人生」

と冒頭1分で最大公約数的な人生を、社会が正義と定めている幸福を、ファッキンファッキンと批判する。自分はこの冒頭のシーンが一番好きだし、一番心に残った映画だった。(※以下上記「」のような幸福を「模範的幸福」と呼称する。)


その後、そんなものよりも俺はヘロインを選ぶ、とモノローグで主人公は語り、ヘロイン中毒だったり喧嘩中毒だったりする主人公含む仲間たちの日々を描くというのがざっくりとした概要だ。



 

結局この作品は、「模範的幸福」を選ぶ人生と「そうではない選択」をする人生を描こうとした作品だと自分は捉えている。

そして、「模範的幸福」は「このモニターの向こうの皆さまの人生」なので、描く必要はなく、徹底して「そうではない選択」をしている主人公とその仲間達の何かしら破綻している人生が描かれる痛烈な青春映画だ。

 

 

そんな作品なので、映画について語るよりも、幸福について語りたくなりました。以下は幸福について語る自分語りです。


自分は、中学生くらいの頃、2010年代にはぼんやりと「模範的幸福を選ぶ人生とそうでない人生があること」を認識していた記憶がある。そして、過去絶対的な価値観であったらしい「模範的幸福」はそのころには既に「少し信用ならないもの」くらいの立ち位置まで落ちてきていたと感じていた。

日々のニュースが謳いあげる離婚率の増加、不景気、倒産、リストラ、いじめ、子供の自殺etc

それらが「模範的幸福」な人生を選択してもハッピーエンドではないぞ、常に破滅するリスクはあるぞ、と常に脅してきた。(実際はなんとなくで生きているとそのレールを沿うことも困難だったのだけれど)

そして現在2020年代では、「模範的幸福」は選択肢の一つであり、結婚もしない人生も貴方らしくて素敵!貴方だけの幸せ、貴方だけの好きなことを尊重しよう!といった甘言が世のキャッチコピーとして踊り狂う時代になった。

「模範的幸福」は旧世代的な価値観にもなりそれを押し付けるのはハラスメントとされる社会にはなったが、それに憧れる人は今だ多数いるだろう。「9割の人が模範的幸福は正しいと考えている社会」の数字が、7割だか6割だかくらいに変わったし、ゼクシィもブライダル業も廃業になっていない。

俺は「模範的幸福」に対して、それが絶対であるという信奉者にもなりたくないし、それを選ぶ奴は愚かであると尖ったナイフになる気もなく、中立でいたいと思っているので、「模範的幸福」はゲームにおけるやりこみトロフィーくらいの認識だ。

「やりこみトロフィーを取れる余裕がある人や選択ができる人が狙い、取れたらそりゃめでたいことだけど、その為のゲームじゃないよね、俺は猫を飼ってゲームやって暮らせたらhappyendでエンディングだから、やりこみトロフィーを取るのが目標ではないよ」というスタンスを高校生くらいから定めていたように思う。

簡単に言うと逃避だ。「模範的幸福」を目標に設定すると人生のノルマが増えて辛くなるからゴールを低く設定している。「模範的幸福」が絶対的価値観と信じて人生を過ごしても、何かしらの要因、自分の怠慢・非モテ・病気・妻の不倫・子供が不登校にetcでそれに陰りが出ることはいくらでもあるしリスクは常にある。なら最初から目指しすぎない方が、模範的幸福にとらわれすぎない方が気楽だよねという合理的な選択だと思っていた。

でもこのスタンスは、結局「模範的幸福」と「そうじゃない幸福」のどちらかを決定しきっていない。保留に近い。
「心のどこかでトロフィーのことを考えながら、まぁ俺はなくても良いけど…と言い訳している選択」と言われると何も言い返せない。
「そうじゃない幸福」に振り切っていれば今頃貯金を全て崩したり借金をしながら猫を飼える物件に引っ越していただろうし、マッチングアプリで顔も知らない異性とのやり取りに疲弊したりしていないだろう。

 

幸福論に正解は無いけれど、「自分なりの答え」を保留し続けていると年は重なっていくし、同級生は結婚し「模範的幸福」を選んでいるのを見ることになるし、自分の人生の選択できる範囲はどんどんと狭まっていっている。深夜にこんな青臭いことを考えている間にも。

 

以上です。